2014年01月01日

2014年、あけましておめでとうございます、新年の抱負はフィレオフィッシュ。

今年もすてきなハンバーガーとの出会いを綴ってゆきたい。
それからスタイラス1が欲しい。
スタイラス1で写したハンバーガーとの邂逅をwebに刻んでゆきたい。

そんな平和と飽食と怠惰が赦される程度に平穏な年でありますように。
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2013年12月28日

ブログ閲覧者数の傾向と対策。

アクセスアップの教科書によれば、特定の分野で記事をまとめるとか、特色を打ち出せとか、ブログ全体をひとつのかたまりとしてコンテンツを構成することが推奨されていたと記憶しているが、これだけスマートフォンが普及すると様子が違うかもしれない。そういう話。

具体的にはブログ全体の構成よりも1記事毎のインパクトのほうが必要になってきた。これはスマートフォンでの閲覧が影響していると考えられる。

PCでの閲覧がメインだった状態では、特定の記事へのリンクからの閲覧者であっても画面上に最新記事がいくつかと、カテゴリーが表示されているので、検索してきたカテゴリーぐらいは気になるらしい。らしいというか、自分でも何か検索して有為な情報が得られたら個人のブログでも他の記事を読むことが多い。

ところがスマートフォンで何かを検索してブログ記事を読むと、周辺情報の手掛りが少ない。カテゴリーぐらいは表示されているかもしれないが、このリンクをタッチするとどういう場所へ飛び出すかわかりにくい。そこで興味が止まってしまうのか、特定の記事だけへアクセスしておしまい、という行動となる。

行った事のない駅へ出かけて、乗換ですぐに次の列車へ乗ってしまう感じ。エキナカのきしめんが評判だったり、駅前のカステラがおいしかったり、そういう周辺情報なしで、あの駅なら行った事あるなーという状態。駅の外観さえ見ていない。

ホームがひとつしかないような駅なら乗換でぐるっと見渡せば、まあこんなものかなと済むかもしれないが、もし巨大で乗換の多い駅やハブ空港のような場所だと全体像はまったくわからない。わからないけれど別に不便はない。

といわけで、これから流行るのは記事中にリンクが多く設置されて1記事から関連するどこかの記事へワープできる仕掛けになっている「ハブ・記事」だろうと思った。ポータルだとブログ全体を把握する必要があるけれど、トップページがあまり意味を成さないので、玄関を調えるより各部屋にテレポート装置を置いたほうが人が集まるだろう。

既にTwitterも面白いリンクをコンスタントに拡散するとフォロワーが増える体制ではないだろうか。「はてなブックマーク」の各ブックマークページが印象に近い。なので、ブログ記事よりもブックマークに精を出してブックマークコメントを充実させるとアクセスが増えるだろう。だろうけれど、ブックマークのページにアクセスがあっても利用者には何も得がないのかもしれない。

各部屋にテレポート装置を設置すると場所ふさぎなので、いずれは胸につけたバッジのようにテレポート装置だけが独立するかもしれないが、そのころにはスマートフォンではないデバイスを利用しているだろう。

そんなことをつらつら考えながら、どうして「はてなブックマーク」をときどき覗くようになったのかを思い出していた。MacのOSで「ウィジット」というちょっとしいたアプリをコントロールする機能が新しく付いたときに「kikimimi」というウィジットをたまたま目にして、面白そうだとインストールしたのがはじまりだ。「kikimimi」はrssリーダーの一種だったと記憶しているが、ここにデフォルトで登録されていた内容のひとつが「はてなブックマーク」だった。ブラウザを立ち上げなくてもリアルタイムで多様なブログ記事やニュースがざくざく流れてくる面白さにしばらく重宝していた。

電池と本体はベルトとか靴に仕込んで手の甲に情報が照射されるようなデバイスがあれば便利なんだけどな。腕時計の竜頭の位置からプロジェクターという機構ぐらいしか思いつかないけれど。電子ペーパーのような表示で五センチ角ぐらいのシールみたいなの、使い捨てで、手のひらとか袖とかに貼っとくデバイスもいいな。ネット越しなら記憶装置はそれほど要らないだろうし、メール読んでシールみたいなの捨ててもデータは残らないからいいかもしれない。記憶媒体も揮発性のやつにしておけばいいのか。

そういうガジェットでゲスな2ちゃんねるまとめばっかり読んで時間をつぶす未来。なんのことはない、井戸端の整備と汚れた洗濯物の提供こそが、最も普遍的に喜ばれるサービスたる井戸端会議の成立につながる。井戸の端をどこへ設けるか、洗濯物をどうやってコンスタントに供給するか、世界中の賢い人が凌ぎを削っているのがネットサービスの世界、かもしれない。
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2011年01月30日

聖地デパートをめざせ、重き荷を背負いて帰路につくがよい その3:真の支配者は地下帝国を築く

次回はガジェットとデパートについてと予告していたが、スイーツに変更。

前回の記事はこちら。

聖地デパートをめざせ、重き荷を背負いて帰路につくがよい その2:デパートに求められているものは何か、そしてとりあえず何階へ行けばよいのか
http://cyclops.seesaa.net/article/154057978.html



仙台の白松ガモナカ、福岡の鶏卵素麺、日本全国のご当地スイーツはお土産の代表として名を知られているが、あー食べたいなと思うときは現地に足を運ぶかお取り寄せするほかはなかった。

ところが、最近はどこのデパートの地下でもご当地スイーツのコーナーが充実しており、青柳のういろうだって白松ガモナカだって並んでいる。

もちろん、デパートによって品揃えも違うので、あちこちチェックして回ってみた。いやはや、どこのデパートでもご当地スイーツのコーナーはものすごく混雑している。どのお菓子もほんとうに少しづつしか並んでいないので、毎日入荷するとは限らない人気商品は入荷スケジュールの札が並んでいる。

以前から同様のコーナーは少なくはなかったはずだが、主に日持ちのするお菓子が並んでいたと記憶している。

いつごろから充実が図られているかはともかくとして、お取り寄せ銘品を直接見て手にすることができるというのはやはりデパートの強みだと思う。


お土産に用意したモナカをうっかり自分で食べてみたらあんまり美味しかったのでびっくりして販売店を探したが、都内デパートへの出店はなかったので残念に思っていたら種類は少ないけれど並んでいたので驚いた。有名なお土産はたしかに評判だけのことがある、と思ったのがきっかけ。仙台のモナカは中か大の大きめのものが特においしい。
posted by holoholo at 16:41| シドニー | Comment(0) | TrackBack(0) | 野望の眺望 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月23日

何かあると考えてしまうシドニーのオペラハウスのこと。

シドニーのオペラハウスがどのように造られたか、そして当初の計画がどのように頓挫したのか、現在のオペラハウスがシドニーやオーストラリアにとってどのような意味を持つのか。

いろいろな問題にゆきあたる度に思い浮かぶのはシドニーのオペラハウスのこと。
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2010年06月22日

聖地デパートをめざせ、重き荷を背負いて帰路につくがよい その2:デパートに求められているものは何か、そしてとりあえず何階へ行けばよいのか

今ではもうあんまりこんなことは言われないかもしれない。お中元の品が三越の包みだととりわけうれしそうな年配の人を憶えているだろうか。

自分が使うものならアマゾンでポチッとしても構わないが、それなりに気をつかう先には三越や高島屋の包み紙が「必要」だった時代があった。今でも必要とされる場面はあるのだが、わざわざそんなことを口に出す人が減っているのは確かだろう。


取引先への手みやげに老舗和菓子を持参することや、何らかのフォローで話題のスイーツを用意する、といった例はわかりやすいだろう。キモチをカタチで顕すためには、だれもがわかりやすいカタチがあったほうが何かと便利なんである。


デパートの魅力についての前記事はこちら。だいぶ間が空いてしまった。
「聖地デパートをめざせ、重き荷を背負いて帰路につくがよい その1:デパートの真の敵はiPadか?」
http://cyclops.seesaa.net/article/139944138.html




個人のための総合商社として機能しお買い物にエンターテイメントを持ち込んだデパートが、エンターテイメントの部分を郊外型大規模店舗に奪われ、総合商社の部分をアマゾンに奪われたというのが現状と考えてみよう。

何が残っているかといえば、社内教育を受けた販売員と暖簾である。カタチにすることができるキモチの部分だ。



経済アナリストが最も忌み嫌う暖簾。だが、いずれこの暖簾が最も大きな資産価値を持つことを経済アナリストは隠しているに違いない。伝統と格式は買ってくればいい、そういう考えで展開されているのがまさにブランドビジネスではないのか。


そんなわけで、デパートのどのあたりに面白味が現れていると思うかといえば、それは1階の雑貨なのである。「大手百貨店で話題の」なんてあおり文句をみかけたりする分野だ。ハンカチ、傘、靴、化粧品、帽子、バッグと女性向けの印象が強いがここで展開されている一押し商品は、ワンテンポ遅れて郊外ショッピングセンターやネットで話題になりやすいと思う。きちんと比較して確かめたりはしていないがね。


というわけでデパートに出掛けることがあれば、1階をひとめぐりしてくることにしている。具体的な例はぜひ自分の目で確かめていただきたい。特にこれからの季節ならUV対策系だ。



もちろんガジェットについてもデパートは面白い。ガジェットとデパートの話はまた次回。
posted by holoholo at 10:53| シドニー ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 野望の眺望 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月04日

お姫様って何?:日本の大名家のお姫様のはなし

むかしむかし、あるところにお姫様がいました。こういう書き出しの昔話は多いので、昔話といえばお姫様がうろうろしているものだとみてよい。

マリオもリンクもお姫様を救い出すために飛んだり跳ねたりしている。

グリム童話なんかのお姫様があんまりにも数が多いものだから不思議に思っていたら、当時のドイツあたりは300ぐらいの領主がわらわらと集まっていたらしいので、都合300人ばかりのお姫様がいらっしゃってしかるべきであるらしい。


そんなお姫様達、日本にももちろん星の数ほどのお姫様というのがいらっしゃった。十二単のお姫様もわんさかいらっしゃるし、江戸時代ならもう江戸中の屋敷にお姫様が雲霞のようにわんわん暮らしていたらしい。


で、お姫様ってのはぼーっと王子様を待っていたり、子どもの世話をして一生を過ごしたわけではないらしい、というのは大河ドラマで予習してあるからいいとして、じゃあ江戸の屋敷で何をしてらしたのか。



1 大名家のお姫様、大名家へ嫁ぐ
大名家のお姫様がお嫁にゆくんだから、それは正室としてお嫁にゆくわけ。御屋敷でぼんやりしていたかといえば、どうやらそういうわけではないらしい。

有名な制度で参勤交代ってのがあるとおり、大名家のお姫様は人質として江戸にずーっと住む。もちろん大名家の奥方様も江戸にずーっと住む。かくして江戸生まれ江戸育ちの生粋の江戸っ子お姫様が育つ。ついでにご婚約は5歳とか6歳で決まってしまうので、嫁入り先に合わせて教育されるんだろう。

大名家の御屋敷は優秀な家臣がいるから大丈夫、とはいっても1年おきに主人は国元へ帰るから屋敷を切り回すのは奥方様の役目、子どもの教育にも気をまわさないといけないし、ひょっとすると姑も近所でちょくちょく顔(と口)を出してくるし、5歳くらいになったら娘の嫁入りの心配もしないといけないし、などとまるで一昔前の社宅の奥様並に「仕事」が溢れている。加えて養育すべき娘や息子は側室の手元に居たり、いろいろな事情から奥方様の手元にいたり、ややこしい事態が伴う。直接の世話は後述する雇い人(サラリーマン)に任せるとしても、差配しないといけない。いきなり管理職。残業代はもちろんなし。

来客の対応だって、半年がかりで準備したりする。

こんな溢れる仕事を補佐するサラリーマンが山ほど抱えられているが、何しろ衣食住と職近接のため女子社員のためには巨大な寮(長局)が、男子社員のためには屋敷をぐるっと囲むこれまた巨大な寮(長屋)が備えてある。当然屋敷のメンテナンスも必要。

こんな状態で出産が続くわけなので、若くして亡くなる例も多い。過労死だよな、現代なら。



2 将軍家のお姫様、大名家へ嫁ぐ
状況としては1と類似してるんだが、こうなるとお姫様の方が大名より身分が上ってことになるらしい。専用の屋敷もさらに巨大化するうえ、補佐する人々も実家からつれてきてしまう。企業なら資本配分は平等でも老舗と新参が合併したようなものか(厳密に考えるとややこしすぎる)。

1と同じ仕事に加えて将軍家の娘としての社交活動?もあるだろう。めっちゃハードそう。かといって将軍家の娘のキャリアってもう仏門ぐらいで、選択肢なんかなさそうである。

生まれながらに総合職キャリアウーマン。就活に辟易するとうらやましい限りだが、ちょっとまて。アタシ一般職でいいですー、が適用されない。



3 大名家のお姫様、大名家へ嫁いで長生きする
70代、80代までリタイア後の人生をエンジョイするタイプの方々。

専用の屋敷に住んで、長老としての実権をふるう場面もあったらしい。篤姫状態。殿様留守中は留守居役とともに留守を任されたりする。旦那が海外長期出張中に姑に家の鍵渡してるようなものだな。

ここまで長生きできると、リタイア後なので仏門に入っている制約はあっても、大名家に暮すメリットが享受できそうである。

ほとんどの殿様は、この年齢までご存命ではない。



4 公家のお姫様、大名家へ嫁ぐ


5 大名家のお姫様、公家へ嫁ぐ


6 その他のお嬢様、お姫様と成って大名家へ嫁ぐ
これも篤姫のパターン、嫁ぎ先は将軍家だけども。養女血統回避作戦を発動すれば、どんな娘さんもお姫様。中卒で省庁キャリアぐらい大変そうだ。



殿様本人も安寧としているわけではなさそうで、隠居後に悠々自適な暮らしをしている割合は多くないはず。現役時に急死で家督を譲る例が多そうだな。


というわけで、お姫様は美しく大人しくなんにもしてませんというのは、屋敷を見ていてもゼッタイ幻想だと思う、という話。大人しく御料理だのお裁縫だのだけに邁進していたんじゃあ、あの巨大な屋敷での生活はムリだろう。

戦国時代とは異なるだろうが、江戸のお姫様はいずれ他藩の藩主夫人となるわけで、大企業大名家の運営戦略上かなり重要なポイントだったはず。世継ぎの男子は大切だとして、その姉妹だって貴重な人的資源のはずなのだ。お姫様が蝶よ花よとうすらぼんやり育てられていたとはとても思えない。






参考文献
関口すみ子『御一新とジェンダー 荻生徂徠から教育勅語まで』、東京大学出版会、2005

同じ著者のお姫様だけの内容の新書の方が読み易いことは読み易い。
ところで、この『御一新とジェンダー』は、よしながふみ『大奥』のネタ元のひとつなんじゃないか、と思う。
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2010年02月13日

表現の女神への供物:「崖の上のポニョ」と「Dr.パルナサスの鏡」

ヒース・レジャーの遺作となったことばかりが映画評を賑わせているのでだいぶ勿体ないと思う「Dr.パルナサスの鏡」。意味深な解釈を誘う「崖の上のポニョ」。比較してどうなるというものでもないが、合わせてみるとこんなことが考えられました、という話。


「Dr.パルナサスの鏡」で物語を紡ぎ世界を支える(つもり)のパルナサスは映画監督の写しである。観客の心のなかの妄想を映像化し楽しませる移動劇場は映画の存在意義そのものを示していると見ることができる。

この映画、「Dr.パルナサスの鏡」は映像表現を行うことそのものについての映画だと理解すればよいのだろう。


晩年のアンドレイ・タルコフスキー状態とでも言い換えると、さらに理解しやすいかもしれない。「何でこんなこと(映画撮ったり)してるんだろうねえ」の断片、とでもいうか、酔っぱらいの戯言にも聴こえる調子である。本人は真剣にこれで世界が滅びるのを守っている(つもり)だったりする。たぶん。散りばめられた思わせぶりなモチーフの全てが、それでもどうやっても映画をやめられませんでしたという言葉に翻訳されてしまう。



「何でこんなことやってんだろう(略してナンデコ)」の映画群がどうやら存在するらしいということで、はたと気が付く。



「崖の上のポニョ」も、もしやナンデコ映画ではなかろうか。




ナンデコ映画として見直すと、ポニョの正体はアニメーションそのものだととらえることができる。自由自在に変形し、観客も制作者も翻弄する気まぐれな存在。本来は何もないにもかかわらず命あるかのようにふるまう「お化け」。


アニメーションという「お化け」に魅入られた人の我が身を供物として捧げますとでもいわんばかりの告白が「崖の上のポニョ」なのだ。



全ての表現が本来は供物であるものかもしれないが、特に供物であることを意識して製作されている表現がナンデコとなるのだろう。ナンデコを純粋に楽しむことが難しいとすれば、それは人ならぬ何かへ向けてのメッセージがあざとく練り込まれているからで、その作為に大仰な偽善が感じられるからなんではないかと思う。


それでも、怖いものみたさというか、業の深いものは面白いので目が離せないわけ。
posted by holoholo at 10:28| シドニー ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 野望の眺望 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月08日

「女流」のイコン、または消費される消費者を製造しつづけるカメラという製品。

マーガレット・バーク・ホワイト、レニ・リーフェンシュタールといった名を挙げるまでもなく「女性写真家」には被写体と撮影者が常に二重写しの存在である印象がつきまとう。

1990年代を席巻したHIROMIX(1)が荒木経惟の被写体であったこと、セルフポートレートを市場評価の出発点としていたことをまずは押さえておきたい。

以降の「女流」写真家の系譜に大きな影響を与えていると考えられることやカメラの普及や性能の変化の分岐点とも近似であるとして、仮にHIROMIXを基点としてとらえてみる。

で、HIROMIX以前。
大竹省二プロデュース(2)による「女流写真家」群、その他の時代。沼田早苗、織作峰子などカメラメーカーのコマーシャルに相次いで登場。AF(オートフォーカス)一眼レフの登場と前後しており、AE(自動露出調整)の普及とともに一眼レフカメラの敷居が下がる。まだまだ一眼レフとしてはゴツいが、ニコンのF3の隣に置けばプラスティック外観のミノルタアルファシリーズも華奢に見える。

一眼レフは使いたいけどピントがどうもな、という層にも大幅にアピール。一気にAF化の波がやってくる。キャノンもオリンパスもミノルタもみんなレンズマウントを変更(3)。カメラ=オヤジの資産の流れが断絶する。断絶はするが、主な購入層は壮年のカメラ第一世代。一式買い替えてくれる。これで1980年代ね。


HIROMIX登場。
コニカビッグミニ(4)とともに、小型コンパクト機でもマクロ撮影ができる、リバーサル(スライド)フィルムでも大丈夫なAE精度(5)、レンズもコニカ、という一眼レフも重くなってきたカメラ第一世代のオヤジ心を鷲掴み。加えて若い女性が振り回して話題(6)になっている、とくれば無敵。1990年代。蜷川美花、長島有里枝も登場。

そうこうしているうちにキャノンから軽量コンパクトかつ比較的リーズナブルなお値段でAF一眼レフカメラのイオス・キスシリーズが登場。キスにあらずんば女流にあらず、といった勢いでイオス・キスをぶらさげた学生が急増。

anan(集英社)でカメラの特集がされ、なにやらオシャレな趣味として認知される。ミノルタアルファシリーズが軽量コンパクトかつ肌が美しく写るという評価など、店頭で二十歳前ぐらいの女性が問い合わせていたがソースはたぶんanan。ヲタクにはハードルが高いよ。




と、ここで時間となりました。つづきは、また。
本文中の敬称は省略しております。





(1)ホンマタカシの被写体であったかは未確認。

(2)大竹スタジオ出身という共通項だけかもしれないが、まあプロデュースでいいんだと思う。ミスコンテスト入賞者とか、容姿端麗な方が多い。

(3)ただしニコンは除く。ニコンは未だにFマウントという後方互換を維持している。えらいぞニコン。がんばれニコン。

(4)初代の型番A5はA5版の書類が画面一杯に写せるところまで近接撮影ができるコンパクトカメラという意味。HIROMIXのコニカビッグミニ使用はホンマタカシの助言によるとのインタビュー記事があった、が出典としては未確認。

(5)リバーサルフィルムのほうが露出精度を要求される。したがって仲間内でオレのほうが写真が上手いと言い張るためにはリバーサルで撮影する必要がある。

(6)当時ブログはまだない。話題とはアサヒカメラの記事を指す。
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2010年02月01日

聖地デパートをめざせ、重き荷を背負いて帰路につくがよい その1:デパートの真の敵はiPadか?

不況で閉店がニュースになる百貨店ですが、いやいや、捨てた物ではありませんぜ、というお話。

休日はデパートへ家族で出掛けて、レストランで外食を楽しんだ後は上階から順に眺めて充実した一日を過ごす、そんなモデルが完成したのが高度経済成長期であるといわれています(本当かどうかは、とりあえず置いておく)。

娯楽の多様化と近年の不況から次々と巨大デパート閉店のニュースが流れ、地方都市のデパートが寂しいことになっている、という大雑把な報道を真に受けてデパートおわた、などど思ってはいけない。はてなブックマークではわからない動きがわかる場所、それがデパート。

というわけでデパートの尽きせぬ魅力を探ってみたい。

休日のレジャーを担うというのは、実は全盛期デパートの一面でしかなかったはずなのだ。ちょっとした贅沢と楽しい時間を提案してくれる場所、つまりはiPhoneのようなハードウエアだととらえるとわかりやすいんではないかと思う。

App Storeに接続する代わりに巨大な建物へ行き、ボタンをクリックする代わりに店頭で包んでもらう、というわけだ。

オンラインでボタンひとつでアマゾンで何でも買える時代に、と思うだろう。しかしアマゾンのボタンは人が作っている(自動生成だといっても元のシステムの全てが人手を介していないわけがない)、配送センターで商品を発送するにも誰かが手を動かしている。その手元のキーボードもアブラカダブラと無から湧いて出て来たわけではない。

関与する人手の総数はアマゾンのボタンとデパートの店頭でどちらが本当に多いのか少ないのか、実際のところはわからない。

で、それなりに様々なリソースが蓄積している以上は、簡単にレガシーデバイスとして片付ける前にデパートの店頭もたまには覗いて見ると新たな発見があったりする。なぜなら、オンラインでポチッとできない人がまだまだ圧倒的に存在するから。

そして、オンラインでポチッとしない人が店頭で思わず包んでもらうあれこれってのはアマゾンの売れ筋商品には出てこない。


そんなあれこれを紹介するつもりなので、つづく。



さて、デパートでの買い物にはモノを買うだけでなく新しいモノから得られる情報を楽しむという側面があって必要を満たすだけではなかったこと、そしてデジタルデバイスの利用はまだハードルが高い場合があることを再確認してみた。ボタンをポチッとするからといってデパートより人手がかかってないわけではなさそうな点も。ではオンラインでポチッとすることが難しかった層に簡便なボタンが並んだデバイスを持たせたらどうなるか。

電話機より大きくPCより簡便な操作でポチッとできそうなものといえばipadである。デパートの真の敵はiPadなのかもしれない。商事会社としてのアマゾンとデパートとしてのアップル、ってことなら競合しないよな。

それでもなお、デパートへ向かうべき理由はまた今度。
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2009年12月02日

記録が解読されるときには記録した主体は残されていないことが前提。

消えないデータストレージという話題になると、最後は粘土板か石板にでも刻むほかはないという結論になる。


『日経プレスリリース』
「日立、石英ガラス内部に刻印したデジタルデータを読み出す光断層撮影法を開発」
石英ガラス内部のデジタルデータを読み出す
発光ダイオードを用いた光断層撮影法を開発
石英ガラスがデジタルデータを長期的に保存できるストレージとして有用であることを確認
http://release.nikkei.co.jp/detail.cfm?relID=237942&lindID=4

石板だ。



もう一つの方法としては記録そのものは一定時間で劣化するとして自己複製するモデル、「まあだいたい合っている」でコピーを繰り返す。
posted by holoholo at 23:49| シドニー ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 野望の眺望 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月24日

観たいものが観たいわ、観たいものは歴史的事実なんかじゃないわ、ドラマが史実だと思ってるのはオタクだけよ。

大河ドラマは観ていないのですが、どうやらいろいろスゴかったようです。


『妄想大河ドラマ』「『天地人』総評」
http://mousoutaiga.blog35.fc2.com/blog-entry-239.html
私は09年の大河ドラマ『天地人』を、

大河ドラマ史上最低の作品である

と断言する。以下に、その理由を、



七つの大罪



になぞらえて記すものである。




ひょえー。イケメン揃いで歴女のハートがキュンキュンしちゃうのはダメですか。

おおむね好評でしたよ。「歴史好き」の方にも。今日は大河ドラマの日だから観なきゃ、という声が多かったと思いますよ。自分が接した限りでは。人の関心をひいてなんぼだという姿勢で、まずは構わないんではないですかね。無関心によって文化になんか一円も投じてやらないとか言われるより。


それじゃあ義経を扱ってた年の雑誌記事で放送局の中のひとが「柳の御所」の考証は現存する京都御所の紫宸殿を参照していますとか、そりゃあまあものすごく正確な考証をしているかのように述べているわけですが、そういうのってどうよ。

ドラマなんだから、コスチュームプレイなんだから。だいたい戦国の人がほんとに何考えてたかなんて、理解できないって。外国の漫才より理解できないって。

だから、何時代を舞台にしようと作って観ているのが現代人である限りはそれは現代のドラマでしかない。忘れ勝ちなんだけど。


引用周辺が反映されていなかったので修正しました。
posted by holoholo at 00:04| シドニー ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 野望の眺望 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月22日

世に事を問うリスクが軽減したわけではないし、ハードルが低いわけでもない、自覚しろ、オレ

ブックマークや被リンクの禁止、引用の禁止、を訴える個人のウエッブページは後を絶たないわけで、おおむねインターネットの仕様を引き合いに反論が殺到する。

難しい問題ではあるが、ほんとうに限られた身近な友人や家族に向けた近況報告や写真のシェアに対して、否定的な反応をわざわざ残すひとは少なくて緩くスルーされることがほとんどだろうから、インターネット上のマナーが絶望的に悪いわけでもないと思う。

不特定多数に向けて「オレ様の歌を聴け」と主張している場合に炎上するんだろうな。やはり。

インターネットがなければ公開されないようなご意見もご主張も、だれもが評論家として全世界に発信できる、できるからといってだれもが主張にみあった耐力を備えているわけではない、はず、というところに問題があるんだろう。

世に事を問うた場合はもうそこは公なのですから、私事ですという言い訳なしに公と対峙しなくてはならないはずなのです。ご意見の体力というかですね、不特定多数に対して「それでも地球は回っている」と言い張る気力と体力が、どうしても必要なはずなのです。

インターネットは五月蝿いから嫌だわ、というなら雑誌でも本でも何でも他の媒体があるじゃないですか。もっとふさわしい場で主張をするべきなんです。たぶん。

では、なんでオレルールを設定してまでインターネット上で主張をするのかといえば、それはもう参入牆壁が格段に低く見えるから、としか思えない。ところが、せっかくの主張も、それほどの耐力がないと残念なことになる。

オレルールを主張したところで、これまでの炎上観察例からは、いつまでも涌く反オレルール対応に疲れてウエブページ削除や更新停止、または何事もなかったようにオレルール削除、という流れをたどる。

ま、評論で生計をたててるか、それでも押して主張したい超耐力とか何かがなければ、アホらしくて続けられないだろう。これは自浄作用なのかもしれない、と、ふと思う。

いろいろの主張の主には酷いことかもしれないが、結局はインターネットだからといって主張の「質」が変わるわけではない。伝播の機会は増えるかもしれないが、あなたの言葉が世界を変えることができるわけではないなどという、生涯知らなくてもいいようなことに直面させられるだけかもしれない。少なくとも何かご意見を述べたいような人は、つまんねー意見だと反応されるのは嫌だろうな。

あ、しまった、変わらなくてもいいから反応が欲しいって場合もあるよな。オレルールならゼッタイに反応あるもんな。全世界、少なくとも日本語がわかる人でインターネットをよく利用している人たちから注目されるよ、やったー。イヤマサカソンナコトハナイデショウ。

いやーん、こんなこと書いて炎上したらどうしようー。(棒読み)
posted by holoholo at 05:47| シドニー | Comment(0) | TrackBack(0) | 野望の眺望 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月24日

願望の寄せ集めではカタチにならない

himeji.jpg
姫路城の一部。おそろしくモダンに見えるだろ。

城を巡る冒険の続き。

世に城郭研究という分野があってですね、城好きは絶えない。しかし、城好きに城を建てさせると建つかというと、どうやらそういうわけではないらしい。

というかね、築城時期が戦国期に入ってたとしても、そりゃほとんど現存してないのよ。ウワモノは。だいたい石垣が残ってればマシなほうで、石垣がない城だって多いわけね。もともとなかったのか、後から持ってかれたのか、それも様々なのね。

現存しているウワモノは、まあだいたい1600年より後に建てられているんだから華々しい戦国期の建築ではない。おまけに現存してるってことはずーっと手を加えられているってことなのよ。手を加えられているってことはね、今見えてるその城の形態が築城時とは違ってる部分があるってことなのよ。

だからですね、現存している城を現存していない城の形態の根拠にするのはたいがい危ないんじゃないでしょうか。そんでもって、某シロスキーさんは縄張りなんかは中世を見て、ウワモノは近世を見る(ていうか幻視?)。なんでだー、なんでなんだー、現存しない建物はだーれも知らないんだー、なんでお前は見て来たかのように誰もしらない建物をけちょんけちょんに言えるんだー。

石垣の強度だの、柱部材寸法からの推定強度なんぞ意味がないんじゃー。アヤソフィアなんぞ、どうやって現在の形態を保っているかわからないぐらいしっちゃかめっちゃかな構造らしいじゃないか。ああ、そりゃ年代も違うし工法もちがうさ。だがしかし、構造計算だの設計強度なんざ現代の話なんだよ。現存しているのは運良く残っているから現存しているわけで、構造的欠陥があって誰もメンテナンスしなかったら崩れてるから残ってない。おまけに破却されてたらわかるわけねーだろうが。戦国時代に築城に関わったやつがどんな構造設計をやってたか、何かわかるんなら反論してみろってんだコンチクショウ。

あー、でもなーこれは城だけの問題じゃなくてさ、文化財指定とかになるとたいがいの歴史的建造物がひっかかる点なのよね。例えば茅葺屋根の新築なんて消防法でアウトでしょ(最近はだいぶ改善されてるけどさ)。構造計算かけたらなんで建ってるのか不思議ね、なんてことになっても、建ってるから建ってるんだとしか、今となっては言えないよね。

ま、それはそれとして、某シロスキー氏の記事中でどうにもいただけないのは肥前名護屋城と聚楽第の設計者が違うだなんて。おお、なんてことでしょう。なんでそんなことが断言できるんだろう。

いろいろムカつくポイントがちりばめられたブログを発見したのだが、チキンなオレ様は直接のコメントは避けて、こんな片隅でブツブツ言ってみる。全体は部分から構成されるが、部分だけを寄せ集めても全体にはならない。

築城主の意図を読み取るべきという姿勢においては敵対しないと思いたいが、カタチにするときにはそういう諸々の細部への拘りをうっちゃる場面があるわけさ。うっちゃらないと、いつまでもいつまでも細部の調整にかかずらってカタチにはならない。
posted by holoholo at 00:04| シドニー | Comment(0) | TrackBack(0) | 野望の眺望 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月09日

ジャック・スパロウは有馬晴信か大友宗麟、それとも高山右近か?

世界の海賊が集結してるときに、何をしとったんだコノヤロウなんだか『パイレーツ・オブ・カリビアン』には日本の海賊がいないらしい。そう、日本の海賊は何をしとったんだろう。

これは海賊の「賊」ってのがよくないんだな。映画はまあ、アクションすぺくたくるだからいいとして、「東インド会社」も「海賊」も実際はたいして違わないんじゃなかったかな。んで、「海事通商を手広くやって儲かってウハウハな連中」と再定義してみる。誰が出資しているかの違いってとこかな。現代のステキな言葉を使えば総合商社とか貿易商ね。んで、これを個人でやってるというよりは自治体レベルでやってると思ってくれ。

山田長政や呂宋助左衛門などなど東南アジアを中心に通商貿易で活躍しまくりの日本人の名前だって知られているじゃありませんか。都市なら堺とか、堺とか、堺とか、がんがん稼いでいたみたいじゃありませんか。

戦国時代よりちょっと前だと、中世琉球(察度王朝から第一尚氏の時代ね)は15世紀ごろまでにはマカオを中心とする東南アジアの経済圏で大きな勢力となっていたはず。同様に、というとちょっと荒っぽいんだけどもいわゆる戦国大名のなかには通商貿易で財を成していた連中が台頭してきていたわけ。んで、その代表として挙げることができそうなのが、有馬晴信とか大友宗麟なんじゃないかと思う。

高山右近はねー、そんな気がするんだけどあんまり確証が持てないんだわー。んでも、ジャック・スパロウ設定としてはいーんじゃね、ということで。年代としてもこっちのほうが近そうだし。『へうげもの』の高山右近キャラがそれっぽいから、って理由はダメですか。

んでね、「カリブの海賊」に高山右近を押し込んでいいいか、というと多分ジャック・スパロウが若すぎるんですね。どうやらスパロウは17世紀の人。対する右近はいちおう17世紀まで生きてはいるけど出会うころには最晩年。最新作の清代の海賊のモデルが17世紀半ば以降確定なので、かなりぎりぎりだな。

16世紀には海禁令でもってこっそりやることになってしまったし(そろそろあんまり旨味がなくなっていたというのもあったはずさ)、活躍時期がちょっとズレてる。江戸幕府ができたりして社会体制の移行がちょっぴり早かったからスパロウ船長の活躍時期には中世的な「海賊」がたちゆかなくなっちゃってたと見たほうがよさそうなのね。
*追記:西洋史的な前近代(近世に相当)は宗教改革から大航海時代をスタートとみる、とWikipediaには書いてあるんだけどさ。「カリブの海賊」ってのはなんだ、超圧縮された南北アメリカの「古き良き」中世という幻想か?

ちゅうことで、世界の「海賊」が集結している時に日本の「海賊」は何をしていたかといえば江戸でフリーターになったりしてたんじゃないかと。
posted by holoholo at 12:39| シドニー ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 野望の眺望 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月25日

融合と断絶のはざまに

をう、仰々しいぞ。でもまあ、何と言っていいのかわからないので、こんなタイトルにしてみている。先にまとめておくと、どうしてまあ、こう同じ問題に関わることがらに現実ではリンクが貼られてないんだろう、てな話。

たとえば、Wikipediaが得意そうなジャンルであっても、項目の相互にリンクがなかったりする。「サイバネティック」と「義体」のあいだは直接リンクがみあたらないし、「サイボーグ」と「サイバネティック」の項目からは「ウォルドゥ」にリンクがみあたらない。かろうじて、「サイバーパンク」を介在させることで「義体」と「サイボーグ」とが関連付けられるが「ウォルドゥ」には至らない。んでもって「ウォルドゥ」は独立した項目がなくて「パワードスーツ」を介在させてようやく「サイバネティック」につながる。

Wikipediaの性質からいって、別にWikipediaの不備というわけではなくて、Wikipediaの項目を記述する側に関連付けがあまり意識されていないということなのだろうなーと思う。

ジェームズ・ティプトリィ・Jrの短編に『接続された女』ってのがあって、攻殻機動隊を見直すたんびに、猛烈にこの短編を思い出してはじたばたしている。『接続された女』ってのは遠隔操作されるロボットと操作する少女の話で、最後は確かロボットが心はからっぽのはずなのに操作している少女と一体化したかのように自主的な行動をとりそうになるって話、だったはず。で、ロボットと呼ばずに操作される筐体を「ウォルドゥ体」と呼ぶわけ。

何で操作される筐体が「ウォルドゥ体」かといえば、ハインラインの短編に虚弱体質のウォルドゥ氏が開発した「パワードスーツ」ってのがあるから。とりあえず、これで『接続された女』から「パワードスーツ」を介在して「サイバネティック」まで関連付けできたと思う。

もちろん「サイバーパンク」の項目には『接続された女』までは出てくるんだけど、多分、身体ってのが脳による操作を受けているってのと、脳に由来するはずの意識ってのが身体と分割されるって概念そのものが「サイバーパンク」であるっていう説明には至らない。

繰り返すけど、Wikipediaの表記を問題にしているわけじゃあない。

書き手の属しているジャンルの壁が、こんだけネットで風通しがよくなったはずなのに、思ったより強固で高いってことに驚いてるわけだ。『サイゾー』とか『(かつての)宝島』とか、いわゆるサブカルチャーがこのへんの断絶を埋めていたんだろうなーとは思うんだけども、「ウォルドゥ」から「義体」までの距離はどーも埋まらない気がする。

一方で「サイバーパンク」と「パワードスーツ」を連携させようとするのをジャンルの融合とみれば、他方では「サイバネティック」と「ウォルドゥ」はジャンル名の下に分断される。間にはさまっている『接続された女』に新しい服を着せてやるとどうなるか。

元の関連付けがわかりにくくなってしまうんではないのか。んでもって、着せられた服で判断されちゃうんじゃないのか。本来は相互に関連がある事項が、分断されてしまうんじゃないだろうか。

ネットは広大でシームレスのはずなのに。ジャンルの壁は改めて構築され続けてるってことなのか?


あー、うん、現状のSFってのがもう目も当てられないのはそっとしておいてほしい。SSSがもはやキャラ萌えに近い(むしろ設定萌え)ってのと同様、我々の本体が五次元の彼方に在って表出しているものがかりそめであるなんて自明となって以降、それでも腹は減るし喉は乾くってのと対峙しなけりゃならない。そいでもって、どうやらそっちのほうが急を要している。


でもまあ、もやもやが残るのだわさ。
posted by holoholo at 02:50| シドニー ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 野望の眺望 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月16日

近代という名の着ぐるみ

というよりは、だらだらと続く中世。

本当のところ、これが日本だけの状態なのかは疑問に思ってるのだけども、あんまり検証する気合いがないから、日本だけ見てみる。

んーとね、地域社会とか地元利権とか、ともすると閉鎖的でダメな古くさいやりかたで、なんてゆーかもっとグローバルな視点が必要だとか、そういう論調をみかけるじゃん。でも、21世紀になってはじめてこんなことが言われてるわけじゃなくてさ、もしかしたら古代からメンメンと、その時々の「中央」がグローバル化を叫んでたんじゃないか、と思う。

いっくらグローバル化を叫ばれたってさ、なーんか適当な理由付けて税金(現代の税金じゃないよ)とられるだけだし、人足はもってかれるし、あんまりいいことないじゃん。んでも「グロバル化、カコイイ!」なんだよね。

かくして、「カコイイ!」だけ採用して、あとは地元でてきとーに(実情にあわせて)運用しちゃうってことになってたんだろうね(だいぶ端折ってます)。なんでもかんでも「中央」がエラくって「地方」をがっちり支配してたわけじゃなくてさ、直接の生産力をもって「地方」が「中央」を呑み込んできたんではなかろうか。あ、「中央」とか「地方」ってばその時々で違うからね、現代の区分じゃない。

んで、グローバル化はそれなりの生産力とか資本力とかが必要なのでハイコストなのに対して、「古くさいやり方」は生産力が低くてもなんとか運用しようとして発展してきたんじゃないかと思うのでたぶんとってもローコストなんじゃなかろうか。

何でこんなことを考えてみたかっていうと、以下の書評を読んだから。

ttp://d.hatena.ne.jp/iunaxan/20070415#p1
[Time Will Tell]より、「マイケル・ジーレンジガー『ひきこもりの国』紹介続き・書評・感想 」
アメリカ(現代のアメリカ国って意味ね)には中世って、そういえばないよなーと思った。ものすごく切実に思った。だから、近代化以前の動力がない世界でローコストに形成される社会ってのがすっぽり抜け落ちてるんだろう。

「閉鎖的で古くさいダメなやり方」はローコスト運用可能なんだから、そりゃしぶといだろう。ワーキングプアってのも、なんだかんだでこの中世的ローコスト運用のサイクルに放り込まれてしまいそうだ。そいでもって、近代以前の世界でヒキコモロウと思えば寺にこもるわけね。「尼寺へ行け」ってやつ。

社会はローコスト運用なのに、ハイコスト運用の論理がかぶさると、余剰が最小単位に分配される(文字通り一国一城の主じゃん)。というわけで各家庭内に「寺」が設置されてしまったのね。ヒッキーのマンションの一室は、深山幽谷のお堂なんだよ。

書評を読んだかぎりでは日本の姿よりはアメリカの姿のほうが見えてくる。たぶん、アメリカには前近代的な「何か」がない(と、少なくとも著者のアメリカ人は思ってるんじゃないか)。ないことを自覚してるうえに、ないことを恐れているっぽい。そんな恐ろしい日本社会の前近代性を退治しようだなんて。もう十分に「前近代」じゃん。龍を退治すればヒーローになれるって、大江山の酒呑童子を倒した源頼光でしょ。そいでもって、厄介なのはこれが学習による中世なところなんじゃないか。

龍や酒呑童子は退治されるべきかもしれないが、何の理由も意味もなく生まれでたわけではないはず。希少動物の遺伝子保護には躍起になるのに、幻だからってこうあっさりと退治されたんじゃあ割にあわない。

だからアメリカ(繰り返すけど、今のアメリカ合衆国ね)には中世がない(とアメリカの知識人=著者が思ってる)ってことが問題になる。学習された中世はあっても、それはやっぱり学習された近代同様にうわっつらの上澄みみたいなもので、着ぐるみ状態なのだろう。

「中世の着ぐるみの近代」対「近代の着ぐるみの中世」。うーん、なんていうか、ダースベイダー対ゴジラ?

こういう対戦が成立するなら「近代の着ぐるみの古代」とか「近世の着ぐるみの先史時代」とかもあるのかな。適当な順列組み合わせだけど。
posted by holoholo at 20:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 野望の眺望 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月08日

「公」は「私」に浸食される、という伝統

電車や道路は公共の場所なので、私事を成してはなりません、という認識は、どーも日本の伝統文化とは相容れないのではないかと。


化粧をするな、メシを食うな、という事例を挙げて、ああ恥ずかしいと言われるのだが、何に対して恥ずかしいのか。などというと、えーい、常識のないヤツめ、と一刀両断にされてしまうのだ。


たぶん、何に対して恥ずかしいのかといえば、道路や電車が公共の場所だという文化基準に照らして恥ずかしいのであって、じゃあ、その文化基準って何だといえば、明治維新で入ってきたやつ、だと思う。



というのが、江戸の公共道路は、「私」の浸食を受け続けてやせ細って行った経緯があるわけで、道路が公共物だなんて思ってこなかったのが文化的な伝統。どだい、江戸では土地私有は認められていないので、使用権の問題だから、道路側に拡張できるなら広げて使ってやろう、という具合で、こういう名残は歩道に飛び出している看板に見て取れる。なんのことはい、「私」なんて高尚なものが認められていないんだから、「公」と「私」の区別が恐ろしく曖昧だった、という「文化」と「伝統」を背負ってるわけだ。


電車のなかで握り飯ぱくつかれると臭いが気になるし、迷惑だわー、とか。粉をまき散らすんじゃないよ、このスットコどっこい。という、不快感ならわかるけど、「恥」だの、「文化」だのいわれるのはどうしてなんだろう。



そんな公共の場で、携帯から、恥ずかしくも恐ろしい「私」そのもののブログの更新なんてやってる分には「恥」を知れとは言われないだろうに。なので、「恥ずかしいからやめて」じゃなくて、「見てる私が不愉快だからやめて」と言えばすむものだと思うのですが。

それだと「私」対「私」になって、決定打に欠けるってことですかね。


なかなか不思議。
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2005年12月16日

玄箱1

外付けHDDで凌ぐつもりでしたが、WindowsとMacintoshをつないだり、はずしたり忙しいので、NAS導入を衝動的にやってみました。

ぷらぷら出かけたら、玄箱を店頭で見かけて、あー、そういえばそんな手段もあったわね、と
あまり考えずに即決。ポータブルHDDはいずれもUSB接続で、古い機械からは不安定だというのと、同じ値段でHDD容量にゆとりの魅力。



でも、なんか不安定。とりあえず、混在環境で動作させるまでをつらつら続けてみよう。
posted by holoholo at 19:06| 野望の眺望 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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